約20年前、幼女四人の命を次々と奪い、猟奇的な手口で日本中を震撼させた宮崎勤死刑囚(45)。公判では不可解な言動を繰り返し、事件について「良いことができた」と振り返ったことも。本心だったのか、精神障害を装うためだったのか。17日の死刑執行まで謝罪や反省の言葉が拘置所の外に聞こえてくることはなかった。
埼玉県入間市などで1988年夏以降、幼女が相次いで行方不明となり遺体が発見された。
「今田勇子」名で犯行声明を新聞社などに送り付けていたのは、当時26歳の宮崎死刑囚だった。
90年3月の初公判。「覚めない夢の中でやったような感じだ」。色白の宮崎死刑囚は淡々と殺意を否認。「女の子が泣きだすとネズミ人間が出てきた…」。意味不明な言動が続いた。
拘置所ではほとんど面会に応じなかったとされるが、月刊誌「創」(創出版)に送り続けた手紙の一部が出版された。2006年1月の最高裁判決の直前には、「無罪です」「(事件は)良いことをしたと思います」と記した手紙を共同通信に寄せた。
最高裁判決当日、宮崎死刑囚は東京拘置所で臨床心理士に面会。判決を聞かされると「そのうち無罪になります」と答えたという。この約1カ月後に出版した2冊目の著書では、最高裁判決を「『あほか』と思います」と批判。判決が大きく報道されたことに触れ「やっぱり私は人気者だ」と感想を語り、「良いことができてよかったです」と事件を振り返った。
一方、その後に創編集長にあてた手紙は「絞首刑は恐怖で残虐。薬を使った執行でなければいけない」と死刑を強く意識した内容だった。薬物使用の場合は「余裕があり、反省や謝罪の言葉を述べる確率も断然高い」とも書いたが、反省や謝罪の気持ちが芽生えることがあったのかどうか不明のままだ。
スポニチ
連続幼女誘拐殺人事件の宮崎勤死刑囚(45)に17日、死刑が執行された。事件を通じて女児への執着心、アニメなどのビデオテープが大量に積み上げられた自宅の様子が明らかになり、当時はまだ物珍しかった「ロリコン」「オタク」といった言葉が世間に広まるきっかけともなった。逮捕後もこうした“奇行”ぶりは変わらず、弁護人らとの接見でも奇妙な言動を繰り返し、社会を困惑させ続けた。
宮崎死刑囚が犯行当時住んでいた自宅は、東京都五日市町(現あきる野市)にあった。自室は母屋の横にあった「離れ」。その中には、6000本ものアニメや特撮もののビデオテープがあった。この自室で東京都江東区の幼女の遺体をのこぎりで切断し、自宅裏庭で埼玉県入間市の幼女の遺体を焼いた。
父は印刷工場を持ち、月4回発行の地元紙を発行する裕福な家庭だったが、その父は平成6年1月に「疲れた」と遺書を残し川に投身自殺。宮崎死刑囚によって殺害された4人の幼女だけでなく、自身の家族までもが事件の犠牲となった。
自らの事件によって周囲に起きた不幸も、宮崎死刑囚にとっては「どこ吹く風」だったのだろうか。
父が自殺したことについては法廷で「死んでくれてスッとした」。弁護人との接見では、「何人かの人が自分をいじめる相談をしているのが聞こえる。『針で(死刑囚の)目を指すのは自分がやる』と話し合っている」と幻聴を訴えたり、独房で「うぉ、起きろ」と突然、大声を上げたりすることもあったという。
無罪を訴える一方で、奇妙な言動を繰り返した宮崎死刑囚。どちらが本当の宮崎死刑囚
だったのか。最後まで真の「心象風景」は判然としないまま、死刑場で45年の生涯を閉じた。(一部略)
Yahoo!ニュース
オタクの評価が一気に下がった事件でしたね。
当時、俺はまだ高校生でした。
絵を描くのは好きだったけど、美少女系とかまったく興味なく、普通のジャンプ読者で、聖闘士星矢とかドラゴンボールばっかり描いていましたね。ゲームも硬派なゲーム(ファルコム含みますw)しかしませんでしたし。
ってのはどおでもいいですが。
これがきっかけで、アニメのLDを買わなくなった友達とかも居ました(たまに見に行っていた)。
髪型変えた友達もいました。
つとむって名前だけで、弄られた人もいました。
紺のラングレーっていう車が悪者の車のように報道されてました。ラングレーは悪く無いのにね。
でも、関係ないよね。コイツが悪いんであって、ヲタクが悪いわけではないんで。
ヲタクって以前に、生き物としておかしい。
全っ然、話変わるけど、賄賂受け取る人の殆どが政治家で、ゴルフ経験者って、関連性ありますよね。
めちゃくちゃ多いはずですよ?規制するべきでしょ?
門半
集会所上位のラオシャンロンヤリマシタ。ガンガン行きますよ?
でも、プレイは通勤時間限定にしてるんですよね。マンガ描く時間なくなっちゃうんで・・・